硬玉(ヒスイ輝石)を最初に宝飾品に利用したのは、紀元前3000年頃の縄文人です。神秘的な力を持つ石として崇められており、4世紀には朝鮮半島にも伝えられました。しかし、8世紀の中期頃、硬玉を大切にする文化は消滅し、人々から忘れ去られました。次に、日本人が硬玉を知るようになるのは、中国から宝飾品が輸入されるようになった明治時代です。縄文時代の遺跡などから硬玉の加工品が出土していましたが、原石の産地が国内で未発見だったため、「硬玉(ヒスイ)は中国の宝石」という認識が生まれました。遺跡などの硬玉も大陸からミャンマー産のものが持ち込まれたものであると考えられていました。しかし、この考えは硬玉加工品の時代分布と矛盾します。縄文時代の硬玉加工品は主に東日本で発見されています。弥生時代では、逆に、西日本で多く発見されています。大陸から伝わったのであれば、西日本から東日本へと広まっていくべきですが、実際は逆になっています。この様に、遺跡から出土する硬玉の存在は、大きな歴史上のミステリーでした。
この謎を解く重要な発見があったのは1938年8月12日です。この日、新潟県の小滝川の滝壺で、小滝村在住の伊藤栄蔵は緑色の石を見つけました。この石は、翌年の6月、東北帝国大学の研究室に届けられ、ビルマ産の硬玉(ヒスイ輝石)と比較されました。そして、同じ種類の鉱物(ヒスイ輝石)であることが判明しました。その年の8月、小滝川の現地調査が行われ、硬玉(ヒスイ輝石)の岩塊が多数発見されています。国内に産地が見つかったことにより、歴史の謎は解明されることになりました。遺跡の硬玉加工品を分析したところ、ミヤンマーではなく、新潟県の硬玉の原石を使用していることが、確かめられました。ヒスイ輝石は日本固有の宝石であると言えます。ただ、8世紀中期に、人々に忘れ去られた原因は謎です。原石の産出量が減ったという説や、時の権力者によって所有が禁止されたという説などが提唱されています。 |